色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 ネタバレ
みなさんこんばんは!
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
もう読みましたか?(・∀・)
まずは、主人公が格別の好意をいだく灰田という人物。
この人物により、前作より語り継がれている、
「ハイカルチャー」と「ヨーロッパの文物」
は健在でした。
主人公の「つくる」という名前は、父親が考え出したものです。
「もちろんつくるの目の前にいるのは息子の方の灰田だ。
しかし年齢がほぼ同じということもあって、つくるの意識の中で、
父子の姿かたちは自然に重なり合った。
二つの異なった時間性がひとつに混じり合うような、
不思議な感覚があった。」
この文面から今回は、
「父の存在」も前面に打ち出ていると思いました。
主人公である多崎つくるは、
自分に「色彩=個性」がないことに悩んでいます。
「色彩=個性」に欠けているため、
他人にかけがえのない何かをあたえることができない。
他人にあたえるものがない自分は、
誰からも真剣に求められないのではないか
――そんな疑いに、主人公はずっと苛まれつづけます。
フィンランドに住んでいる旧友・黒埜恵理の前でも、
主人公はみずからの悩みを語ります。
これに対する恵理の答えは、つぎのようなものでした。
「『たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない』
とエリは言った。
『もしそうだとしても、君はとても素敵な、心を惹かれる容器だよ。
自分自身が何であるかなんて、そんなこと本当には誰もわかりはしない。
そう思わない? それなら君は、
どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。
誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、
しっかり好感の持てる容器に』」
仏教では、あらゆる事物は何かとの関連においてのみ存在し、
その事物に固有の性質はないと考えます。
このつくるの存在は、
より仏教の本質に近いのかなとも感じました。
実際仏教では、固有の個性を持たないことを「空(くう)」と呼びます。
「空っぽ」いう意味ではありません。
事物は、他のものとのかかわりなしに特性をおびることはないにせよ、
たしかにこの世に存在し、一定のはたらきをなすからです。
私たちも共存しています。
互いに影響を少なからず与えています。
だからこそ、このブログを通じて私も、
少しでもお役に立てるよう、より精進しようと思いました。